Monday, October 23, 2017
 

情報の価値を決める、確かにある不確かなもの

例の尖閣ビデオの件を発端にWikiLeaksから公電文書が流出など、情報管理についての話題が最近続いてる。

どれも外交問題に関わる重要な機密という事で、情報をひた隠しにする政府と「知る権利」を行使し嬉々として報じるマスメディアなど、色々あるわけで。でも「重要な情報だ!機密文書だ!」と、ジャーナリストの方はメディアで盛んに叫んでいるが、正直、自分にはピンと来ない。会社で上司の陰口をメッセンジャーでやりとりしてたら、誤送信で本人のところにFwで飛んでしまったとかの方が、よっぽど「えらいこっちゃ」という気が。なんでそう思うのかなと考えてみれば、外交上の重要文書など「自分には直接関係ないから」というのが結論。

ここ試験に出ます。

別にニヒリスティックな事を言いたいという訳でなく、どれだけ国家的に重要な情報だと言われても、ほとんどの人からすれば「明日、デートで何を着てくか」の方がよっぽど、直近での最大の関心事だと思う。つまり、「重要な情報」というには、個々の人のその時の気分、感情、立場、時間、環境によってどうにでもなるという事。けれど、どうも報道を見ていると「一大事感」の演出にやっきになっている様な印象を受ける。実際に流出した情報の内容の検証もそこそこに、国家に対しての影響とかを評論家やコメンテーターがネガティブ啓蒙の個人的意見を述べてるシーンをよく見る。

マジでヤバいですよ。

ただ、本来、その情報が「どれだけ重要なのか」を決めるのは、やはり個々の判断であり、受け手は閲覧の上に情報を精査し、自分の裁量で最も重要な(今一番欲しい)情報を手に入れる。そこに新しいや古い、派手や地味という概念は本来、存在しえない気がする。もちろん外交上の機密文書が漏れて、テロや戦争が起きたら大変でしょというのは分かるのだけど、それは流出をした事実を受け入れる事が大事であり、情報から推測される派生的危機感は別の話だと個人的には思ってる。危機感を煽る事で、情報の大事さを演出し注目を得ようというのは、親の前で嘘泣きする子供とあまり大差がない様な。まだ子供の方が「おもちゃを買ってほしい」とか目的があってしてる分、意味のある行動だと思えてならない。

要するに、受け手が事実という情報をどう捉え、それを個人の生活にどう反映するのかをもっと考えても良いのかなーと。そのために集団的一派論でなく、個々人が「知る権利」を行使するのが筋であり、発信側と対等の立場であるのが理想かなと思う。
ただ機密文書流出より市川海老蔵がbuzzってたり、Webに流出した情報を恥も外聞もなく報道するメディアジャーナリズムを見る限り、日本はまだまだ平和だなと思う2010の師走。

 
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