Sunday, November 19, 2017
 

自由という名の不便

b02「なんかしたい」けど「なにしていいかわからない」という感覚にたまに苛まれる時がある。

そういう時は、なんとなく家でボーっとしてたりするんだけど、「したい」という気持ちに応えられてないので、だんだん焦ってくる。で、とりあえずMac立ち上げたりするんだけど、そもそもで「なにをするか」が決まって無いから道具触ってても悶々とするだけになる事がある。
特に値段高めとか高性能な道具を手に入れると、目的達成のための道具というより「道具を使う事が目的」になりがちなので、堂々巡りになりやすい。MacのCMで「自由に好きな事、楽しめばいいじゃない」という台詞があったけど、その通りでMacは、こちらが何をすればいいのかは教えてはくれない。したい事を楽しむための道具にすぎない。そこんとこを当たり前の事なのに勘違いしがちだなと。

ちょっと俯瞰で考えてみたら、「なんかしたい」けど「なにしていいかわからない」という感覚って「指示を待っている」時の感覚に似ているなーと思った。まぁ、この場合、面倒なのが指示するのは、自分というところ。じゃ、その「指示」ってどっからくるのかと。天の声みたいに降ってくるもんでもなさそう。一生待機もご免だし。

で、現実的に考えて、自分の中のアウトプット欲求に応えるには逆説的に、インプットをあげるというのがある。本でも映画でも漫画でもなんでもいいのでインプットをあげる事で漠然としてる「したい」が具体化し「これがしたい」に変わる。あとはそれに向かって行動(アウトプット)すればいいというもの。何をインプットするかも、自分だけで選ばないで友人からのレコメンドも積極的に触るというのが大事かも。喰わず嫌いはもったいない。ただ、インプットの方法の中にネットサーフィンを入れてよいかは迷いどころかなとは思ってる。「経験」で見た時に得られる刺激が、五感のそれと比べて足りない様な気がする。知識の枠を出ないというか、した気になって終わってしまうというか。その辺は今度考える。

憧れとか嫉妬とか相対的な衝動ではなく、具体的な何かはなくても主体的に「したい」という気持ちがあるなら、純粋にその行動の過程を楽しめばいいと思う。「できる」じゃなく「したい」という点も重要かも。結果は後から付いてくるし。そういう「指示」を自分に出せるかどうかが、自由の奴隷になるか、自由を支配できるかの分かれ目なのかも。

自由が苦手な切なーい人間。

 

都合の中の過不足

x02プロジェクトマネージメントをする時に一番やっかいな事がある。

素材の管理とか進捗とかそういう物理的な部分に関しては、管理シートを作れば俯瞰で全体が見れるし、マイルストーンを念頭に進行していけばよい。デザインのプレゼン等は、ある程度、主観的な部分はしょうがないので、全体の方向性さえ確認ができていれば後で微調整する感じ。サイトにもたせる機能についてもワイヤー制作時に各機能の意図と狙いを共有する事で、方向性はつけられる。ローンチ後の運用についても、サイト自体の目的がブレてなければ手法を列挙した上、予算とのすり合わせから優先度をつけての実施、検証、更新の流れ。案件としては、これでザックリと成り立つ。

じゃ、一番面倒なのはなんなのってなったときに思い当たるのは、やっぱり人の管理。面倒くさいとかではなく、完璧に管理しきるのが不可能という意味で。
が、世の中には色々な人がいる訳で、公開日時に普通に遅刻する人とか、言い訳だけは一丁前の芸術肌のオペレーターの人とか、こっちが期限を明示しないと、どんなに軽い作業だろうがどこまでも後回しにして良いと勝手に判断して、それを言わない人とか、正義ヅラして結果論かざして人のモチベを下げる人とか、周りに良い顔するばかりで結局、問題を何も解決しようとしない人とか、作りっぱなしでこちらの校正を待たず帰ってしまう人とか、決裁者に確認をとらず勘で答えて作業を膨らませる人とか、理屈ばかりで全体が見えてないHow to世代丸出しの人とか、とか。
別に人の愚痴を言いたい訳ではなくて、個々の都合が共有できてないと、あっという間に喧々囂々になりがちだなーと。まぁ、それを防ぐツールとしてGoogle Waveとかがあったりするのだろうし、問題点には何かしらの手法を用いて対応し、「あとはそちらの都合なので」と距離をおいて粛々とやるというのはある。

ただそういう、自分が納得ができない他人の中の部分(社会的な常識とかは別として)に、「それはダメでしょ」と正面から言う事をあきらめてはいけない気がしている。
プロジェクトを滞りなく進行する上で人が必要だからという打算的な大前提は確かにある。でも、それを超えた損得なく付き合っていく関係が築けないと仮にGoogle Waveで情報の共有も万全で事故なく、すんなりいったとしても、何か足りない感覚に陥りそうな、漠然とした不安を感じる。やっぱり「最後に愛は勝つ」なのか。
が、一方で、相手がその関係を築くに値する人なのかどうなのかというのもあったりで、なんとも悩ましい。その辺のジャッジは、もう経験を積むしかないのかな。

 

創る事と食べる事

y81-1クリエイターを名乗る以上は、自分の個性や表現したいものを把握し、自分なりの表現方法で、具体的に形にしないといけない。

そこでお金が発生するかしないかの違いは、社会的なしがらみだったり、「いや、食わないと死ぬから」という至極当たり前のことからだったりするんだけど、「自分が表現したいもの」に金銭を払う価値があるかどうかのサジ加減は、それを見た人が決めるべきなのか、それとも自分で決めるべきなのか悩む時がある。表現する事が目的なら別にストリートでやっていればいい話。これで食えるというある種の思い込みが大事だと思うのだが、なかなかそこまで踏み切れる人って少ないなーと思う。

ある有名な俳優がインタビューで「僕の事をこんなにも知っている人がいない時期に戻りたい」と言っていたらしい。それって自分が表現したいものと、やらなければいけない事(お金のため)とにギャップを感じているからなのだと思う。自分の好きなようにやることは、一見、素晴らしい事のように思う。でも、そこに商業的価値が無いとした場合、それは一瞬にして「役に立たないもの」となってしまう。あるお笑いスクールの講師が、生徒に教える時に「まずは自分を捨てる勇気を持て」と言っているというのもそういう事なのかもしれない。客にウケなければ、意味がないんだから客の求めてるものを考え、喜んでもらえるもの(価値があるもの)を作れという事なんだろう。そもそもで芸人を育てるスクールなんだから、テレビや舞台で必要とされ、売れる人を育てる立場の人ならではのもっともな話だと思う。

そことの擦り合わせで、創作する事に完璧主義の人間は、心痛めたりするのだが逆に、自分の好きなようにやる事に商業的価値が生み出せる人、「やりたい事やってお金を儲けてる人」も、当人には当人の計り知れない苦悩なり孤独感があるような気がする。できてない人、できない人からすれば羨ましい限りだが、どうも必ずしもそれが幸せではないらしい。まず、自分がやりたい事をできる環境をつくる必要があるし、やりたい事を受け入れてもらえる人(客)を育てないといけない。また、その箱庭の中でしか自分のアイデンティティを見いだせない事に気づいてしまった時、一般社会との軋轢に耐えうる精神力が、その人にあるとは思い難い。結局、背を向けて自分と向き合う事でしか価値を見いだせなくなってしまうし、表現の手法が奇抜で巧妙であればあるほど、求められるものも高くなり箱庭の客の反応と自分の表現方法への猜疑心から、手法に走ってますます自分の首を締めてしまうのではと思う。

金銭を生み、生活するという当たり前の社会の中で、当たり前の手法(企業で働くとか)が取れない事への苛立ちとか焦りって、そういうゲージツ家肌の人にはあると思うんだけど、そこか吹っ切れてないとやっぱり難しいのかな。売れてるうちは良いのだろうけど、売れなかったら本当にゴミ以下みたいな扱いだし。自分もそうなりたいと思っていた時期があっただけに、今はそこを見越した上で、周り(社会)との繋がりと自分の個性(表現したい事)の軸が大事なんだなと思うようにはなったけど、「譲れないもの」があやふやなうちは、やっぱり自分を捨てるのは怖い。どれが要らないものなのかの判断がつかないし、まず、その「譲れないもの」に商業的価値があるのかも不安だし。

たぶん軸は軸として持ちつつ、「ダメでもいいよね」と開き直らないと折り合いはつけられないと思う。
結局そこを左右するのは、もう運なのかもしれない。

 

相手に気づかせる文化

w19社内スタッフや代理店や外注制作関係と打ち合わせをした時に、会議が長引く時がよくある。

「会議を短縮し円滑にする10のTips」とか「だから会議が長引く理由」とか、それっぽい本なり記事に手法はよく載っているのだけど、そもそもで会議をしてて、妙な違和感を感じる時がある。それは「会議の目的は何なのか共有してないから」とか「アジェンダを用意せず、議事録をつけてないから」とかそういうことではなくて。
なんとなく「会議」というものは、「誰が何をいつまでにどうするのか」を決めるフリをした「タスクの気づかせあい」なんじゃないのかと思った。ある種、なすりつけあいなので、しっかりと「誰が何を」というのを決める前提にない。でもタスクなりクライアントの要望はあるので、誰かがやらないといけない。その決まるときの理由が、「自分がやりたいから」とか「そこは私の仕事なのでやります」という前向きなものではなく、会議に出てる人達の力関係だったり色々な事情が裏で働いて、やる人が決まる事が多い。そのせいなのか、往々にしてやる事になった人に、妥協というか嫌々感を感じてしまう。あれなんでなんだろう。

やるべき事はわかってるんだし、個々の立ち位置もはっきりしてるのなら、自ずと誰がやるべきなのかはわかるはず。だから「これはあなたの仕事なんだからやってください」と正直に言えば即終わるんだけど、会議の時に渦巻いてると感じる「遠慮」とか「めんどくさい」とか「誰か決めるだろう」とか「あいつにやらせよう」という立会う人間の弱気な感情。それが会議を長引かせてるし、話がこじれてる理由な気がする。

理由や状況を遠まわしに述べて、そのために資料を作り、やるべき位置にいる人にそれをやらせるように話を持っていく頭脳ゲームが「会議」だとしたら、正直しんどいのだけど、「みんなで考えてみんなで決めよう」という全体主義からの責任回避のスタンスが文化としてある限り、きっとそういうのって無くならないんだろうなー。と思った。

 

関心の対象と範囲

t53自分の生活なり仕事なりには、「自分が関わっている事」に対して、見えない範疇というものがあると思う。その時に悩むのが、物事に対して関心を持つときに、自分がどこまで首をつっこめばよいのかというとこ。

Webサイトの制作の場合、自分が携わってるサイトのディレクションについては、お客との交渉とか、素材の手配とか、仕様の取り決めとかが、ここでいう「関心の対象」になる。それは自分のタスクなので普通にやるんだけど、自分から見て、それを取り巻く付加的な要素(デザインとかプログラミングとか)の判断に困ってしまうときがある。
ある種、分担作業が当たり前のサイト制作において、タスクの割り振り=決定権の分散なので、制作前に仕様を共有して適材適所のエキスパートが、それぞれ自分の「関心の対象」に対して良いと思う形で判断をするのが、普通なのではと思っていた。あとは「こうしましたー」って言ってもらえれば、問題なければ「じゃ、それで」で済むし、自分がわからない事について判断を求められた時に「そっちで決めて」になる。ただ自分の場合、「全部自分が決めないと」と思う反面「無理だから任せちゃお」という葛藤が先に出るので、アサインしたデザイナーとプログラマーが提案タイプか指示待ちタイプかで変わってくる。

生活においても「自分と自分が関心のある人と自分が関心のある人と関係がある人」についてという場合、自分にとっての関心の対象は、「自分が関心のある人」なので、「自分が関心のある人と自分が関心のある人と関係がある人」の間に何があったか(あるのか)が関心の対象から外れてしまう時があった。特に「自分が関心のある人と自分が関心のある人と関係がある人」の間にある事が、自分にとってネガティブな事の場合。直接的に自分に関わってこない分、現実味が湧きにくい。自分の事として受け止められないので「それはそれ。これはこれ」みたいな形で物分りよく割りきるか、どうしてよいかわからないという感覚になる時があった。

慈愛的に少しでも自分と関係がある事柄全てに関心を持つべきなのか、それぞれに責任や範疇があるんだから目の前の自分の関心の対象にだけ気を配るべきなのか。正直、その辺は実感としてまだよくわからない。でも、自分の関心の対象が何なのかを決めるのは自分である以上、状況とか事情とか立場とかはあるにせよ、前者でありたいなと思う。それは自分の関心の対象を広げる事だし、翻って自分の器というか、枠を広げる事にも繋がるような気がする。