Saturday, April 20, 2024
 

老婆心という便利な言葉

自分はTwitterをやっています。

最初に始めたのは3年前くらい。Twitterドラマが始まるくらい認知度が上がってきた昨今、その使い方について、自分なりに考えた部分があるので書いてみる。

自分が考えた限りTwitterの使い方は大きく3つ。

    1,気に入った人をfollowingして自分も雑談的なPostをする
    2,自分から告知したい事柄をPostするのみ。限られた人以外、followingしない
    3,botなどNews系のみをfollowingする。自分はPostしない

1は、いわゆるネットコミュニケーションツールとしての使い方。
誰かや自分のPost内容にRTするなりレスを返したりして半チャット的に情報共有するための方法。

2は、メディア型の使い方。
本来は誰もfollowingしないのがベストだがTwitterの仕様上、誰かをfollow or 誰かにfollowされてないと検索に出ないので、情報配信する=事柄を世に出したいという部分に繋がらないため特定の人最低1人はfollowする必要がある。情報配信のみを目的とし、一方通行的にPostする方法。

3は、RSS的な使い方。
News系botや自分が興味のある有名人のみをfollowし、TLを流す。完全に受け身として情報収集に徹し、自分だけのニュースサイトの様にする方法。

自分は、主に2と3の複合タイプ
多くの人は1の使い方が多いと思う。自分も3年前に始めた時の使い方はこれだった。いわゆるチャット的な使い方。ただ正直、この使い方はおすすめしない。
理由としては、「時間の浪費が大きい」「レスが無いと不安になる」「コミュニケーションがネットに偏りがちになる」など経験則から。逆に言えば「ネットを使って不特定多数と相互にコミュニケートしたい!」という人には良いだろうが。その点、2と3のタイプは相互のコミュニケートを目的としていないので、1の様なデメリットは少ない。

そもそもで考えたいのが、「なにを目的として自分がTwitterをやりたいのか」という事。
多くの人がTwitterを始めた時に言う「followしてください」というセリフにそれらがこめられてる様な気がする。実際、「私はあなたをfollowします。でも私の事はfollowはしなくていいです」という人は見たことがない。

ログインしていない状態でTwitterのアカウントを見ると以下の文書がでる。

「Twitter は、情報をいとも簡単に提供できる、操作性の豊かなオンライン・ソフトウェアです。」

つまり本来、TwitterでPostされる情報は一方通行であり、followというシステムによって、コミュニケーション化されているといえる。リアルな場にある「その事柄に対する共有感」をシステムで作り上げてるという部分にSNS全般でコミュニケーションする時に感じる「違和感」があるような気がする。それが「Twitterの何が面白いのかわからない」という人たちの感じてる事なのかも。なので、人と人との根幹にある共有感がない状態で「Twitterビジネスだ」とかいうマーケティング屋さんは、やっぱり数字でしか人を見てないのかなと思ったり思わなかったり。

結局、適材適所だし、使いたいように使うのがよいとは思うのだけど、つぶやき≒独り言。
独り言は

会話の対象とするものが存在しないにもかかわらず、発声を伴う言語を口にすることである。-Wikipedia-

という前提で、のべつまくなしに誰かをfollowする前に「〜なう。」とかいう、いかんともしがたい情報が、あなたにとって本当に必要なのか、相手にとって必要なのかを考えてからが良いですよ。という割とお節介な話。

 

失ってこそ意識するもの

先日、千駄ヶ谷にある、暗闇のエンターテイメント「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に参加してきた。

ダイアログ・イン・ザ・ダークとは

参加者は完全に光を遮断した空間の中へ、何人かとグループを組んで入り、暗闇のエキスパートであるアテンド(視覚障害者)のサポートのもと、中を探検し、様々なシーンを体験します。

というもので、前々からラジオCM等で興味があったのもあり、縁あって参加する事に。

そこで自分が感じたのは、やはりいかに自分が日々の生活の中で視覚に頼り切っているかという事。
光の一切無い空間では、目を開いても瞑ってもまったく同じ世界で、「暗い=黒」という概念があるという事を改めて認識させられて、なんだかそこにホッとしてる自分がいるのが変な感覚。また、中は当然暗いので、足の裏や手の甲、周りの音や声を頼りに進んでいく事になる。普段あまり意識しない、近くに誰かがいるという安心感、また、部屋が広ければ広いほど感じる不安感。そこから翻って、人は視覚を頼りに全体を把握し自分の居場所を認識しているんだなと感じた。

自分の中でアレっと思ったのは、手探りで何か形を感じる際、暗闇の中でも目を瞑っていた事。視覚を遮るという意識が、目を開いても瞑っても同じ暗い世界でも働くというのが、なんとも滑稽だった。
また、参加したメンバーのほとんどが、初めて会った人だったのも良かったと思う。適度な緊張感の中、手で触れ、声を出す事でしかできないコミュニケーションは、人見知りがちの自分としては、なんとも不思議な感覚で「自分を変えるには、まずその環境に身を置くことから」を体感できた気がする。

自分から皮膚一枚向こう側がまったくわからない世界は、恐怖と好奇心の世界。今まで意識しなかった感覚や感触だけを頼りに、暗闇の不安や恐怖へ一歩ずつ進む。その過程は、何か新しい事に挑戦する時のマインドに似ているかもなーと思った。

 

自分の仕事をつくる

たまには、最近読んだ本のレビューなぞ。

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)

物が溢れた時代におけるクリエイターのモチベーションの見つけどころとしても良書だと思った。

なぜ人は働くのかというテーマから自己確立の深い所まで、様々な職種の人へのインタビューからの著者の考察による報告書という感じ。自己啓発的に「こうすれば良い!」みたいなものは無いんだけど、これからの生き方を考える良いキッカケになった。

これを読んでの自分の結論としては、以前の記事でも書いているのでまぁ、よいとして、自分はどこに身を置きたいのか、自分を殺してまで守るべきもの(ルールとか空気とか)があるのか、そもそもでその守るべきものってなんなのか。「お金が欲しいから」という目的だけで、仕事をする事や「不況」を理由に儲かる話に飛びつく事が自己確立においてどれだけの危うさがあるのかを感じれた。

個人主義と全体主義、やりたい事と喰っていく事の境目で、人は生きてるんだなーと。それを昇華させる矛先として「人の役に立つために自分ができる事をする。」という本来、仕事をする上で根源にあるべき思想を改めて考えさせられた一冊。

 

還元の志

3/24で31歳になる。

自分が二十歳そこそこだった時から比べると、意識的なものにあの頃から大きな変わりはなくて、「31歳じゃん」とか言われてもあまり実感がない。でも、いざ次の年齢を迎えるギリギリになって「あー、そういえばオレ、今年30歳だったんだな」と感じたりしている。自分がもうオッサンかどうかは、まだよくわからない。

30歳の自分を振り返ってみると、良く言えば、自分の中の子供の部分と大人の部分を見つめ直せた1年だったと思う。その分、悩みも多かったけど、生きる上での根源のようなものを感じれるようになってきたのは自分の中で大きい。それに行き着くまでに周りにたくさん迷惑をかけてしまったのは申し訳ないけど。ただ、そこから得た経験や考えた事を直接的ではないにしろ、どこかで繋がっていると信じて、なにかしら恩返ししていけたらなーと今は思ってる。

これからも結果や手っ取り早い手法に捕われず目的をちゃんと見据え、過程やプロセスを楽しめる様に工夫し、見返りを求めず自分の能力を発揮できる様、その環境を自ら作りだせる様、努力していきたい。

そう思える様になっただけでも、二十歳の頃に比べたらそれなりに成長しているのかも。
とりあえず、おめでとう自分。

 

大人になるための裁き

この前スーパーで、そこにいた子供が、ちょっとカッコ良いケースのガムを買おうとしていた。

が、パッと見どこからガムが出てくのかが、わかりくいものだったらしく、それをみて母親さんが「そんなわかんないものやめなさい」と言っていた。わからないのは、母親さん本人であって子供ではない。その後「さっきの飴でいいじゃない」と言ってレジに子供を促していた。その子供は口をつぐんで立ち尽くしてたんだけど、なんだか見てて悲しくなってしまった。

昔から自分の悪い癖なんだが、よく「●●したい!」という事を思いつきで口走る。ただ、大抵その後「お前なんかにできるわけない」という主観や「あなたのためを思って言ってるのよ」という親心や外的な状況をあげられ、諦めさせらる事が多い。仮にそれを振り切ってやったとしても、失敗したらしたで「それ見たことか」と何度も何度もあげつらわれる。

で、いつも思うのが「なんでそんな事言うの?」という単純な疑問。応援する気があるのなら「いいじゃないか、やってみなよ」とか「じゃ、その為には何が必要か考えよう」とか、やりたいという気持ちに応える言い方があると思う。あと、他人に自分の願望を言った時に生まれる「言った事はやらないといけない」という変なプレッシャーはなんなんだろう。実際にやるかやらないかは本人が決める事だと思うのだけど。
仮に失敗したって、本人には良い経験になるんだから「それを糧に次また頑張ろう」とか「なぜ失敗したのか考えよう」と、なぜならないのか。一回失敗したらもう人生の敗北者みたいな扱いを受ける事が多いし、周りも自分がそうならない様に勝てる勝負以外はさせてもらえなかった気がする。それは当事者からしてみれば、相手を思っての事からだという理由なのだろうけど、それは同時に可能性の芽を潰している。「親の心、子知らず」は「子の心、親知らず」でもある。

まぁ、それは愚痴だし、結局諦めてる時点で本心からやりたかった事ではないからなのかもしれない。それに突発的な事を言って相手が拒絶反応を起こすのは、それ以前のプレゼンテーションができてないからなので自分のせいでもあるのだが、「やりたい!」って思った事は事実なので、そこを尊重する風潮がもっとあっても良いのになーと思う。そうする事で色んな可能性も生まれるし、自分が信じる事を行動しても良いのだという自信につながる。
環境のせいにはしたくないが、「周りに迷惑をかけない様に」という他者にとって都合良く生きるというマインドが、子供の頃からすりこまれてるから相手にもそれを強要してしまうのか。

個人の主義や、やる気が尊重されないと、どんどん考えが当たり障りなくなってくる。「右にならえ」が良しとされ、かといって右が正しいとも限らない。それってやっぱりつまらないし、その集団性が普通に恐い。なんとも勿体ない話だなと思った。