Wednesday, November 13, 2019
 

UX=おもてなし

Webにおいて近年言われてるUser Experience。

自分も興味があって、セミナーに行ったり色々と手法を学んだり、それを設計に反映したりと頭の中でコネコネやっていたのだが、「結局、よいと決めるのはユーザーかー」って思ったら、学問的や数値上でUXを突き詰める事にちょっと疲れてしまった。知識としては大事だし今後、評価されてくる分野だと思うんだけど、UXという言葉が一人歩きしてる、Webで「よくある感じ」になってるんじゃないのかなと。すぐにどこかのマーケティング屋さんが、儲けの手法に変えてしまうのがもったいない。

UXの翻訳時の候補の言葉に「おもてなし」があるらしい。UXという言葉の定義とそれが沿うかは置いておいて、そのマインド自体は良い事で、サイトでどうユーザーを「もてなすか」という思考があるからナビや画像の1つ1つにも気を配る。ユーザーに何を伝え、サイトをどう使ってほしいかというある種、提案の1つなのではと。

その為には、常日頃からユーザーを観察し、何が求められてるのか気を配る必要がある。「もてなす」という最終目的があるのなら、自分の職能や仕事の枠に捕われる事もない。マクドナルドでレジ係の人が「一緒にポテトはいかがですか?」と勧めるのと同じ事なのかと。ただ、それぞれの持ち回りみたいなのはあるので、然るべき所に依頼をするというのはあるのだろうけど。もっと飛躍すれば制作者側からユーザーへのアプローチの手法は、サイトだけに限らなくてよいのかも。リアルでの交流会でもよいのだろうし、「自分はWeb屋だから」という固定概念すらその目的の前では意味をなさない気がする。

常にお客様第一である事を念頭に、自分ができる最高のパフォーマンスを考え、行動する事が、Webでも接客業でも大事なのだなと思った今日この頃。

 

失敗は成功

Webサイト制作・運営においての「成功か失敗か」の判断は、決めるのが難しい場合が多い。

具体的な期間があって、その間の平均値に目標を立て、それをクリアしたら「成功」の場合とか、そもそもでリニューアルする事自体が目的の場合、作業完了しローンチした時点で「成功」となる事もある。
逆に失敗としてあげられるのは、結果というより制作時の過程などに多い。クライアントとの意思疎通がうまくできなかったとか、予算が足りなくなってしまったとか、そもそもの要件自体に無理があったとか。むしろ失敗というより完璧主義からの後悔の念というべきか。

正直、短期的に売り上げを上げたいのなら、Webではなく別の手法が良い。絶対的にダメとまでは言わないけど、サイトを作るだけでなくリスティングなり広告出稿なりで、多角的にかつ中長期的に見ないと今の市場が細分化された世の中では、Webは直接的な販路に向きずらいと思う。より、購買層に直結する能動的手法でアプローチをしないと、目先の売上にはなりにくいかと。残念ですけど。
また、本来の目的が何なのかと定点観測をどのタイミングでするかを念頭に、ある一点の時点の結果から成功なのか失敗なのかの判断がされるべきなのに、それぞれの立場からの主観が絡む事が多い上に、どうも全体的に「失敗ありき」で話が進むことが多い。それは日本人特有の奥ゆかしさなのかもしれないが、もっとみんなで褒め合ったらいいのにとか思う。変にビジネスを神格化しすぎてるというか、シビアにならないとダメみたいな風潮が多い気がする。売上に直結するからというのはわかるけど、それは、そもそもの製品自体の話というか販売手法の話であって、サイト自体の成功、失敗はその一要因に過ぎない。

個人的にはWebサイトにおいての成功とは「サイトを立ち上げるという行動を起こした時点で成功」と言えるのではと思う。仮に目標としたアクセス数、売上が達成できなかったとしても、それはあくまである一点での結果にすぎないし、評価基準として設けるのは、それが評価する人にとって都合が良いというだけの話。サイトを育てるというマインドからすれば、そこでの一喜一憂には意味がない。失敗を恐れて何もしないのが一番の失敗なんじゃないかなーと。むしろ失敗を楽しんで、それを次(運営)に生かす行動を起こすことが、売上をあげることと同じくらい大事だし、成功する秘訣なんだろうなーと思った。

 

自由という名の不便

「なんかしたい」けど「なにしていいかわからない」という感覚にたまに苛まれる時がある。

そういう時は、なんとなく家でボーっとしてたりするんだけど、「したい」という気持ちに応えられてないので、だんだん焦ってくる。で、とりあえずMac立ち上げたりするんだけど、そもそもで「なにをするか」が決まって無いから道具触ってても悶々とするだけになる事がある。
特に値段高めとか高性能な道具を手に入れると、目的達成のための道具というより「道具を使う事が目的」になりがちなので、堂々巡りになりやすい。MacのCMで「自由に好きな事、楽しめばいいじゃない」という台詞があったけど、その通りでMacは、こちらが何をすればいいのかは教えてはくれない。したい事を楽しむための道具にすぎない。そこんとこを当たり前の事なのに勘違いしがちだなと。

ちょっと俯瞰で考えてみたら、「なんかしたい」けど「なにしていいかわからない」という感覚って「指示を待っている」時の感覚に似ているなーと思った。まぁ、この場合、面倒なのが指示するのは、自分というところ。じゃ、その「指示」ってどっからくるのかと。天の声みたいに降ってくるもんでもなさそう。一生待機もご免だし。

で、現実的に考えて、自分の中のアウトプット欲求に応えるには逆説的に、インプットをあげるというのがある。本でも映画でも漫画でもなんでもいいのでインプットをあげる事で漠然としてる「したい」が具体化し「これがしたい」に変わる。あとはそれに向かって行動(アウトプット)すればいいというもの。何をインプットするかも、自分だけで選ばないで友人からのレコメンドも積極的に触るというのが大事かも。喰わず嫌いはもったいない。ただ、インプットの方法の中にネットサーフィンを入れてよいかは迷いどころかなとは思ってる。「経験」で見た時に得られる刺激が、五感のそれと比べて足りない様な気がする。知識の枠を出ないというか、した気になって終わってしまうというか。その辺は今度考える。

憧れとか嫉妬とか相対的な衝動ではなく、具体的な何かはなくても主体的に「したい」という気持ちがあるなら、純粋にその行動の過程を楽しめばいいと思う。「できる」じゃなく「したい」という点も重要かも。結果は後から付いてくるし。そういう「指示」を自分に出せるかどうかが、自由の奴隷になるか、自由を支配できるかの分かれ目なのかも。

自由が苦手な切なーい人間。

 

都合の中の過不足

プロジェクトマネージメントをする時に一番やっかいな事がある。

素材の管理とか進捗とかそういう物理的な部分に関しては、管理シートを作れば俯瞰で全体が見れるし、マイルストーンを念頭に進行していけばよい。デザインのプレゼン等は、ある程度、主観的な部分はしょうがないので、全体の方向性さえ確認ができていれば後で微調整する感じ。サイトにもたせる機能についてもワイヤー制作時に各機能の意図と狙いを共有する事で、方向性はつけられる。ローンチ後の運用についても、サイト自体の目的がブレてなければ手法を列挙した上、予算とのすり合わせから優先度をつけての実施、検証、更新の流れ。案件としては、これでザックリと成り立つ。

じゃ、一番面倒なのはなんなのってなったときに思い当たるのは、やっぱり人の管理。面倒くさいとかではなく、完璧に管理しきるのが不可能という意味で。
が、世の中には色々な人がいる訳で、公開日時に普通に遅刻する人とか、言い訳だけは一丁前の芸術肌のオペレーターの人とか、こっちが期限を明示しないと、どんなに軽い作業だろうがどこまでも後回しにして良いと勝手に判断して、それを言わない人とか、正義ヅラして結果論かざして人のモチベを下げる人とか、周りに良い顔するばかりで結局、問題を何も解決しようとしない人とか、作りっぱなしでこちらの校正を待たず帰ってしまう人とか、決裁者に確認をとらず勘で答えて作業を膨らませる人とか、理屈ばかりで全体が見えてないHow to世代丸出しの人とか、とか。
別に人の愚痴を言いたい訳ではなくて、個々の都合が共有できてないと、あっという間に喧々囂々になりがちだなーと。まぁ、それを防ぐツールとしてGoogle Waveとかがあったりするのだろうし、問題点には何かしらの手法を用いて対応し、「あとはそちらの都合なので」と距離をおいて粛々とやるというのはある。

ただそういう、自分が納得ができない他人の中の部分(社会的な常識とかは別として)に、「それはダメでしょ」と正面から言う事をあきらめてはいけない気がしている。
プロジェクトを滞りなく進行する上で人が必要だからという打算的な大前提は確かにある。でも、それを超えた損得なく付き合っていく関係が築けないと仮にGoogle Waveで情報の共有も万全で事故なく、すんなりいったとしても、何か足りない感覚に陥りそうな、漠然とした不安を感じる。やっぱり「最後に愛は勝つ」なのか。
が、一方で、相手がその関係を築くに値する人なのかどうなのかというのもあったりで、なんとも悩ましい。その辺のジャッジは、もう経験を積むしかないのかな。

 

創る事と食べる事

クリエイターを名乗る以上は、自分の個性や表現したいものを把握し、自分なりの表現方法で、具体的に形にしないといけない。

そこでお金が発生するかしないかの違いは、社会的なしがらみだったり、「いや、食わないと死ぬから」という至極当たり前のことからだったりするんだけど、「自分が表現したいもの」に金銭を払う価値があるかどうかのサジ加減は、それを見た人が決めるべきなのか、それとも自分で決めるべきなのか悩む時がある。表現する事が目的なら別にストリートでやっていればいい話。これで食えるというある種の思い込みが大事だと思うのだが、なかなかそこまで踏み切れる人って少ないなーと思う。

ある有名な俳優がインタビューで「僕の事をこんなにも知っている人がいない時期に戻りたい」と言っていたらしい。それって自分が表現したいものと、やらなければいけない事(お金のため)とにギャップを感じているからなのだと思う。自分の好きなようにやることは、一見、素晴らしい事のように思う。でも、そこに商業的価値が無いとした場合、それは一瞬にして「役に立たないもの」となってしまう。あるお笑いスクールの講師が、生徒に教える時に「まずは自分を捨てる勇気を持て」と言っているというのもそういう事なのかもしれない。客にウケなければ、意味がないんだから客の求めてるものを考え、喜んでもらえるもの(価値があるもの)を作れという事なんだろう。そもそもで芸人を育てるスクールなんだから、テレビや舞台で必要とされ、売れる人を育てる立場の人ならではのもっともな話だと思う。

そことの擦り合わせで、創作する事に完璧主義の人間は、心痛めたりするのだが逆に、自分の好きなようにやる事に商業的価値が生み出せる人、「やりたい事やってお金を儲けてる人」も、当人には当人の計り知れない苦悩なり孤独感があるような気がする。できてない人、できない人からすれば羨ましい限りだが、どうも必ずしもそれが幸せではないらしい。まず、自分がやりたい事をできる環境をつくる必要があるし、やりたい事を受け入れてもらえる人(客)を育てないといけない。また、その箱庭の中でしか自分のアイデンティティを見いだせない事に気づいてしまった時、一般社会との軋轢に耐えうる精神力が、その人にあるとは思い難い。結局、背を向けて自分と向き合う事でしか価値を見いだせなくなってしまうし、表現の手法が奇抜で巧妙であればあるほど、求められるものも高くなり箱庭の客の反応と自分の表現方法への猜疑心から、手法に走ってますます自分の首を締めてしまうのではと思う。

金銭を生み、生活するという当たり前の社会の中で、当たり前の手法(企業で働くとか)が取れない事への苛立ちとか焦りって、そういうゲージツ家肌の人にはあると思うんだけど、そこか吹っ切れてないとやっぱり難しいのかな。売れてるうちは良いのだろうけど、売れなかったら本当にゴミ以下みたいな扱いだし。自分もそうなりたいと思っていた時期があっただけに、今はそこを見越した上で、周り(社会)との繋がりと自分の個性(表現したい事)の軸が大事なんだなと思うようにはなったけど、「譲れないもの」があやふやなうちは、やっぱり自分を捨てるのは怖い。どれが要らないものなのかの判断がつかないし、まず、その「譲れないもの」に商業的価値があるのかも不安だし。

たぶん軸は軸として持ちつつ、「ダメでもいいよね」と開き直らないと折り合いはつけられないと思う。
結局そこを左右するのは、もう運なのかもしれない。