Thursday, June 29, 2017
 

Webとリアルの補完関係

r87Webのプロモーションでリアル連動させようというのは、よくある話なんだけど、その手のPRは総じて「サムい」という印象がある。
確かにお金はかかるし、どこぞのマーケティング屋が、やれ「口コミ」だとか、「ロングテールで〜」とか言っているが、そもそものPRの価値がなんなのかが見えてこない。これも目的が後追いで手法が先にきているケースなのかも。

日テレがルパンをつかったPRが進行中だけど、「ルパンがモヤイ像を盗んだ!」とか言われても「あー、じゃぁ、どこで待ち合わせすんの?」という感想しかもてない。
単純に、モヤイ像が無くなった!という部分に感動が持てないのか、まだ無くなったモヤイ像跡地を、この目で見てないからなのかわからないけど、なんとなくシラけてしまう。

ただ、実際にその無くなったモヤイ像跡地を見たら「ほー」とか思うんだと思う。それは実際にリアルで起こった事だし、その実行力は凄いと思う。ただ、それの発端は別にWebじゃなくてもいいんじゃないかなと思う。なんか無理矢理Webに絡めてそんな事しなくても、たとえ「不況など暗いニュースばかりが目立つ日本に、愉快・痛快な話題を提供して活力を与える」ことを目的に立ち上げられたとかいう、あやふやなプロジェクトだとしても、行動の起点にWebは絶対的に必要なものではないんじゃないかと。

むしろ、こういうPRはWeb連動しないで、リアルのみで進行し、その結果を知った人同士でWeb内で、あーでもないこーでもないと言い合ってる方が楽しいような気がする。それこそ真の口コミだし、よっぽど派生すると思う。メディアミックスしないと予算が確保できないという訳でもないと思うし。

あくまでWebはリアルである事(あった事)の補完でいいんだと思う。じゃないと、なんとなく最初からタネ明かしされて「凄いでしょー」って言われてるみたいで、もったいないなーと思った。

 

Web制作の視点からのSEO

y65SEO施策にはざっくり分けて「内的SEO」と「外的SEO」の2種類がある。内的SEOはサイト内のテキスト記述や、文書構造の施策。外的SEOは被リンクの数を稼ぐのと、ヒットさせたいキーワードにお金を出して、そのキーワードでユーザーがGoogleやYahooで検索した時に上位に表示させる施策。

Web制作屋としてできる事は内的SEOであり、口すっぱくして「コンテンツが〜」とか「なにやりたいのか〜」とか、クライアントにヒアリングをして、それにあわせてマークアップをするんだが、クライアントの目線が外部(ユーザー視点)にある場合の落としどころが難しい。サッカー用品売ってるサイトの来訪キーワードが「ボール」だからって「じゃ、ボール専門サイトを作ろう」ってのも変な話。木を見て森をウンタラではと。

つまりユーザーにどのキーワードで検索した時にサイトに来て欲しいのかが無い場合。
企業系サイトだとアクセス数は多いほどよいという世相に飲まれ、結局、コンバージョンも少ない、「ただ来訪者が多いサイト」になってしまう。なにかしらのコンバージョンをとっているサイトなら良いのだが、月次の定例会議とかで「今月の来訪者はこれだけでしたー」とか、「で?」っていう報告になってしまってるWeb制作会議は往々にして多そう。実際そうだったし。

htmlの記述の仕方だったり、CSSの記述の仕方など、内的施策の手はいくらでもあるのだが、どうしても限界があるのも事実。外的SEOでテコ入れしたとしても、そこも何かしらの裏付けがないと、前述の形で中身のないアクセスが増えるだけ。

「来訪者の質」についての議論って、わりとおざなりになってるような気がする。というかSEO業者にお願いしてる企業だと社内で、そこまでのリソースは割けにくのだけど。一部のWeb屋でワイワイやってるのもある意味で平和なんだが、なんだかそこでお金つりあげて、その手の「草食系サイト」を食い物にしてる気がするんだが。

結局、内的も外的も両方必要なんだから、ターゲット絞ってちょっとずつやれば?ってのが持論。
サイトが来訪者を育てる概念もあって良い気がするんだけど、そこはまた別の話か。

 

無駄という贅沢

子供の頃、算数で「マイナスとマイナスをかけるとプラスになる」というのを聞いて、なんとなく解せないまま、今まできたんだけど算数以外でもこういう事ってあるような気がする。
仕事や人生に置いてもマイナスな局面に、明らかに普段ならあり得ない事とかすると意外と打破できたり。毒を盛って毒を制すというか。
マイナスからプラスに引き上げるのは大変だけど、わりとそういう時って正攻法で行こうとしすぎてる時だったり、周りの視線や評価を気にしてる時だったりするかも。落ちこんでる時みたいにジメっとしたマイナスではないなら、パーっと忘れてしたいことした方が、後々後悔するよりはマシかな。

やっぱり無駄なものは無駄だし、くだらないものはくだらないと思う。でも、それで良いと思う。それは主観だから。
80年代後半の不条理ギャグ世代としては、どうしてもその辺が発想のベースにあったりするので、周りが無駄とかくだらないというものを大事にしたいと思うし、作っていきたいなと思う。本気で手をかけて、くだらないものを作る。そんな贅沢をしてみたい。ただのヘソ曲がりかしら。

それを見た誰かが「くだらねー。でもイイ!」って言ったら俺の勝ち。
なんの勝負かは知らんけど。

 

手法と目的の微妙な関係

n66-2自分は、写真を撮るのが好きだ。

なので休日はカメラを持ち歩く事が多いのだけど、被写体が決まらず結局何も撮らずに帰ってくることが、以前よくあった。
なんでかなーって考えたんだが、それは「写真を撮る」という行動が目的になってしまっていて、「具体的な何かを写真に撮りたいから」という訳ではなかったからだと気付いた。

デザインについてもそうで、デザインは本来、クライアント(サイト)なり生活なりである潜在的な問題を解決するための手法のはず。でも、他人が作った商品やサイトを見たときに、なんとなく「有名デザイナーが制作!」という煽り文句だったり、デザインするために使うツールや、新しい技術に目がいって、「なぜそのデザインにしたのか。目的はどこにあったのか。」を考える事が二の次になってたなと思った。

写真を撮りたいと思った目的や理由は、自分の中の結論としては

自己表現をしたいから

に、落ち着いた。そのための手法の1つとして写真を撮るという行動を選んだ。なので被写体はなんでも良いと思う。それをすることで自己表現ができるのなら。
Webディレクション(仕事)に関しても

クライアントやサイト自体が持ってる問題点を分析し、自分で考えた解決法を提案し、それでお金を得たいから

だと思った。その解決法として「デザインをする」事をしたいと思った。まぁ、喜ぶ顔を見たいからとか綺麗な事も言えるけど、お金はもらわないと食ってけないので、そこは今度また考える。そこにある価値とかも気になるし。

なぜそれをしないといけないのか。なぜそれが必要なのか。根本に本来あるべきの目的を見ないで、手法やそれをとりまく環境に捕らわれてしまうと、そもそもの目的がおいてけぼり、もしくは薄いので、袋小路に入ってしまう。まさに本末転倒。
ただ、結果だけを求めると人は近道をしたくなるのもある。過程や方法の積み重ねこそ、「自分は何ができる」という自信の部分につながるので、なんとも微妙なバランス。

特にWebの場合は新しい技術が、どんどん出てくるので、手法に引っ張られやすいと思う。知識としてどういうものか知っておく必要はあるけど、全部できるようになる必要はない。それが自分にとって必要かどうかを見極めるほうが大事。それに結局、本当に良い技術は残るから。その時自分に必要なら、その時、覚えればよいと思う。

まぁ、根本のところは「だって好きなんだもん。だからそのためにこうしたいんだもん。」でいいだろうけど。

 

ツールから見るコミュニケーション親密度

picture_6_copy11コミュニケーションをする際に使うツールから、相手との親密度を表した表。

ただ、状況や伝えたい事の質だったり複合的な部分もあるし、シンプルにそれだけの仲という前提だけど。

総じてだけどやっぱりWeb系は、その手軽さからなのか、低いなぁという印象。個と個のつながりという意味では、たしかにWebは向かないと思う。いや、可能なんだけど、逆に絞り込む方が手間がかかるというのがあるからか。逆に言えば不特定多数への連絡や、周知には向いてるしな。適材適所。一長一短。なんだかなー。

Google Waveは個人同士のやりとりなら、7と8の間くらいになるのかな。不特定多数にだったら2とかなんだろうけど。まだやったことないので想像だが。

つーか、これって、そのツールを使ってないという事は、その親密度にあてはまる友達がいないという事にもなるのかしら。

いや、考えないようにしようっと。