Wednesday, November 13, 2019
 

「情報の共有」が含む2つの意味

人対人のコミュニケーションをする時、会話や電話、メール、SNSなどWeb上でのやりとりなど、そのシチュエーションも多様化しつつあり、それぞれのコミュニティで人の輪を広げている人もいる。

ただ、シチュエーション(ツール)こそ違えど、その中にいる人達の交流のベースはあまり変わることなく、1つのテーマや問題点について情報のやりとりをするのが常と言える。が、それぞれのツールには得手不得手がある。それは人がやりとりしている情報の目的は大きく分けて「事実の共有」「感情の共有」があるからだと思う。

事実の共有とは

事実というのは客観的な数値や考察、一部、個人の過去の経験則からの話が主になる。つまり(個人的範疇の)結果から紐づいた論理的過去を相手に伝える事。1+1が2である事が世の中の普遍である様に、揺るがない事実にはそれ相応の力が宿るし、事実の共有とはその力を召喚しそれが正しいという概念を相手と理解しあう事といえる。メールやブログなどWeb上での情報のやりとりがこれに適していると言える。ログで情報を残す事で客観的過去として後に確認する事ができるのも大きな利点。

感情の共有とは

喜怒哀楽の感情のみならず、説明できないなんとなくの感覚。「自分はこれに対してこう思う」といった感情を相手と分かち合う事。理屈や論理ではなく、個々の中のモノサシで測られるそれは主観以外の何物でもないし自信の賜物。その主観を相手に伝え共感を得るのが感情の共有と言える。会話や電話、強いて言うなら自筆の手紙が適している風に感じる。

その伝え方

自戒も込めて言うけど、たまに使い方を間違えてしまう人がいる。よくあるのは女性の愚痴めいた会話に対して改善点を述べてしまう男性とか、逆に、問題が起きてどうしたら良いのか困っている部下に飲みにケーションをとろうとする上司とか。特にWeb関係の人は、事実の共有に目線が行きがちでリアルでの人間関係でもそういった、ただ事実をやりとりするだけのコミュニケーションしかできなくなってしまっている人がいるのでは。

余談だけど、事実という情報は、ある問題の前で時に「答え」の顔をする。過程をすっ飛ばして答えを出し「こんな事もわからんの?」という態度を取る人がいるけれど、得てしてそういう人が知らない事をこちらが事実として伝えるとイヤな顔されたりなんてのもよくある話。逆に事柄に感情を乗せ過ぎて「感情的」になってしまう人もいる。それは共有ではなく一方的な爆発なので、受け止めるには時間もかかるし、距離もとりたくなる訳で。また性別によっても、男性は事実の共有、女性は感情の共有に偏りがあるみたいで男女の間の深くて暗い河ってこれかなと思ったり思わなかったり。

とにかく一概に情報の共有と言っても2つの意味があるし、それぞれに適したツールがある。おそらく色々なツールが出てきた上で生まれた後付けの概念なのだろうけど、これから先の人と人のコミュニケーションにおいて適材適所の考え方は割と重要になってきそうな気がする。総じて言えるのは、「自分が相手とどちらの共有をしたいのか。また相手がどちらの共有を求めているのか。」をまず想像することが大事と言えそう。自分がどちらに偏りがちかも踏まえ、扱う情報に沿ったツールを選ぶ事でコミニュケーションの輪の形も変わってくる様な気がする。

これを書いてる時点で、個人的には「こう思う」という感情の共有をしてるつもりだけど、ブログが事実の共有に適したツールである以上、その真意がどこまで伝わるのかは、やっぱり謎だし伝わらなかったらやっぱり悲しい。せめて仲間が欲しいなーと思う今日この頃。

 
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