Sunday, November 3, 2024
 

構造と対価

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経済活動とは、何かしらのモノやコトをニーズに対して提供し、対価(金銭)を得る事をいう。飲食だったらメニューだし、金融だったら資産運用のプランとか。または福祉系のように無形のサービスを売るというのもある。

それら商品をラインアップとし営業手法を用いて販売し、対価を得るためにみんな頑張ってるのだけど、でも時として、営業は「売れるかどうかは商品の良し悪し次第」と言い、制作は「商品が何であれ売ってくるのが営業の仕事」と言う事がある。

それぞれの役割はあるし、自分の範囲外を適所に委託するのは、別に間違ってないと思うのだが、「売れないのは商品が悪いからだ」と「売れないのは営業力が無いからだ」という議論。特に話が商品ありきの時が多いのだが、イニシアティブを営業が持つか、制作が持つかにもよるけれど、それが責任のなすりつけあいになってしまう事がままある。
結論としては、「どっちもどっちじゃね?」って思うのだけど、なぜこういう議論になりがちなのかは考える必要がありそう。

個人的には、経済活動していく上での構造と起点に問題がある様に思う。特に「周りの情報を見てると、こんな商品が儲かるらしい」とか「上司(クライアント)が作れといったから」というのが起点なっていると怪しい。

どちらにも言えるのは、世の中や会社といった自分の外側が発想の起点になっているという事。状況や実現可能な事柄に自分を合わせる、すり寄り型と言ってよいかも。なので、商品もいかに外側のニーズにマッチしているかが基準になるし、営業は言われたままに作った商品をクライアントの前に並べるだけ。
制作も得られる対価は見えているので、それ以上のブラッシュアップを能動的にしようという動機も乏しい。もちろんニーズには則しているのだから、売れて当たり前と営業は思い、制作は頼まれたものをただ生産するだけの工業化に陥る。ただ、経済活動は成立しているので、結果としては問題無いという事になる。

面目上は「世の中のニーズをいち早く読み取り、先進的技術でソリューションをご提供」って話なのだけど、どうもそれだと、意識の空洞化を感じるときがある。
発端が外部からというのが、経済活動する上で基本的構造なのはわかる。ただ絶対に忘れてはいけないのは、「自分が当事者である」という意識と「自分の想像を具現化できる場所を活動の場の中で確保する」という事なのでは。それは、エゴイズム的にやりたい事をやるという事ではなくて。営業だったら商談の場だし、制作だったら制作物がそれらのステージになる。そこすらも他人のせいにしてしまっているから、責任のなすりつけあいになってしまうのだろう。

会社や組織の中では役割分担は然るべきだし、なかなか難しいのだけど、他人任せの経済活動では、いつまで経っても「満足感」という対価を得るのは難しいんじゃないかなーと思った。

 
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