Saturday, January 18, 2020
 

創る事と食べる事

クリエイターを名乗る以上は、自分の個性や表現したいものを把握し、自分なりの表現方法で、具体的に形にしないといけない。

そこでお金が発生するかしないかの違いは、社会的なしがらみだったり、「いや、食わないと死ぬから」という至極当たり前のことからだったりするんだけど、「自分が表現したいもの」に金銭を払う価値があるかどうかのサジ加減は、それを見た人が決めるべきなのか、それとも自分で決めるべきなのか悩む時がある。表現する事が目的なら別にストリートでやっていればいい話。これで食えるというある種の思い込みが大事だと思うのだが、なかなかそこまで踏み切れる人って少ないなーと思う。

ある有名な俳優がインタビューで「僕の事をこんなにも知っている人がいない時期に戻りたい」と言っていたらしい。それって自分が表現したいものと、やらなければいけない事(お金のため)とにギャップを感じているからなのだと思う。自分の好きなようにやることは、一見、素晴らしい事のように思う。でも、そこに商業的価値が無いとした場合、それは一瞬にして「役に立たないもの」となってしまう。あるお笑いスクールの講師が、生徒に教える時に「まずは自分を捨てる勇気を持て」と言っているというのもそういう事なのかもしれない。客にウケなければ、意味がないんだから客の求めてるものを考え、喜んでもらえるもの(価値があるもの)を作れという事なんだろう。そもそもで芸人を育てるスクールなんだから、テレビや舞台で必要とされ、売れる人を育てる立場の人ならではのもっともな話だと思う。

そことの擦り合わせで、創作する事に完璧主義の人間は、心痛めたりするのだが逆に、自分の好きなようにやる事に商業的価値が生み出せる人、「やりたい事やってお金を儲けてる人」も、当人には当人の計り知れない苦悩なり孤独感があるような気がする。できてない人、できない人からすれば羨ましい限りだが、どうも必ずしもそれが幸せではないらしい。まず、自分がやりたい事をできる環境をつくる必要があるし、やりたい事を受け入れてもらえる人(客)を育てないといけない。また、その箱庭の中でしか自分のアイデンティティを見いだせない事に気づいてしまった時、一般社会との軋轢に耐えうる精神力が、その人にあるとは思い難い。結局、背を向けて自分と向き合う事でしか価値を見いだせなくなってしまうし、表現の手法が奇抜で巧妙であればあるほど、求められるものも高くなり箱庭の客の反応と自分の表現方法への猜疑心から、手法に走ってますます自分の首を締めてしまうのではと思う。

金銭を生み、生活するという当たり前の社会の中で、当たり前の手法(企業で働くとか)が取れない事への苛立ちとか焦りって、そういうゲージツ家肌の人にはあると思うんだけど、そこか吹っ切れてないとやっぱり難しいのかな。売れてるうちは良いのだろうけど、売れなかったら本当にゴミ以下みたいな扱いだし。自分もそうなりたいと思っていた時期があっただけに、今はそこを見越した上で、周り(社会)との繋がりと自分の個性(表現したい事)の軸が大事なんだなと思うようにはなったけど、「譲れないもの」があやふやなうちは、やっぱり自分を捨てるのは怖い。どれが要らないものなのかの判断がつかないし、まず、その「譲れないもの」に商業的価値があるのかも不安だし。

たぶん軸は軸として持ちつつ、「ダメでもいいよね」と開き直らないと折り合いはつけられないと思う。
結局そこを左右するのは、もう運なのかもしれない。

 
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