Wednesday, August 5, 2020
 

創る事と食べる事

クリエイターを名乗る以上は、自分の個性や表現したいものを把握し、自分なりの表現方法で、具体的に形にしないといけない。

そこでお金が発生するかしないかの違いは、社会的なしがらみだったり、「いや、食わないと死ぬから」という至極当たり前のことからだったりするんだけど、「自分が表現したいもの」に金銭を払う価値があるかどうかのサジ加減は、それを見た人が決めるべきなのか、それとも自分で決めるべきなのか悩む時がある。表現する事が目的なら別にストリートでやっていればいい話。これで食えるというある種の思い込みが大事だと思うのだが、なかなかそこまで踏み切れる人って少ないなーと思う。

ある有名な俳優がインタビューで「僕の事をこんなにも知っている人がいない時期に戻りたい」と言っていたらしい。それって自分が表現したいものと、やらなければいけない事(お金のため)とにギャップを感じているからなのだと思う。自分の好きなようにやることは、一見、素晴らしい事のように思う。でも、そこに商業的価値が無いとした場合、それは一瞬にして「役に立たないもの」となってしまう。あるお笑いスクールの講師が、生徒に教える時に「まずは自分を捨てる勇気を持て」と言っているというのもそういう事なのかもしれない。客にウケなければ、意味がないんだから客の求めてるものを考え、喜んでもらえるもの(価値があるもの)を作れという事なんだろう。そもそもで芸人を育てるスクールなんだから、テレビや舞台で必要とされ、売れる人を育てる立場の人ならではのもっともな話だと思う。

そことの擦り合わせで、創作する事に完璧主義の人間は、心痛めたりするのだが逆に、自分の好きなようにやる事に商業的価値が生み出せる人、「やりたい事やってお金を儲けてる人」も、当人には当人の計り知れない苦悩なり孤独感があるような気がする。できてない人、できない人からすれば羨ましい限りだが、どうも必ずしもそれが幸せではないらしい。まず、自分がやりたい事をできる環境をつくる必要があるし、やりたい事を受け入れてもらえる人(客)を育てないといけない。また、その箱庭の中でしか自分のアイデンティティを見いだせない事に気づいてしまった時、一般社会との軋轢に耐えうる精神力が、その人にあるとは思い難い。結局、背を向けて自分と向き合う事でしか価値を見いだせなくなってしまうし、表現の手法が奇抜で巧妙であればあるほど、求められるものも高くなり箱庭の客の反応と自分の表現方法への猜疑心から、手法に走ってますます自分の首を締めてしまうのではと思う。

金銭を生み、生活するという当たり前の社会の中で、当たり前の手法(企業で働くとか)が取れない事への苛立ちとか焦りって、そういうゲージツ家肌の人にはあると思うんだけど、そこか吹っ切れてないとやっぱり難しいのかな。売れてるうちは良いのだろうけど、売れなかったら本当にゴミ以下みたいな扱いだし。自分もそうなりたいと思っていた時期があっただけに、今はそこを見越した上で、周り(社会)との繋がりと自分の個性(表現したい事)の軸が大事なんだなと思うようにはなったけど、「譲れないもの」があやふやなうちは、やっぱり自分を捨てるのは怖い。どれが要らないものなのかの判断がつかないし、まず、その「譲れないもの」に商業的価値があるのかも不安だし。

たぶん軸は軸として持ちつつ、「ダメでもいいよね」と開き直らないと折り合いはつけられないと思う。
結局そこを左右するのは、もう運なのかもしれない。

 

相手に気づかせる文化

w19社内スタッフや代理店や外注制作関係と打ち合わせをした時に、会議が長引く時がよくある。

「会議を短縮し円滑にする10のTips」とか「だから会議が長引く理由」とか、それっぽい本なり記事に手法はよく載っているのだけど、そもそもで会議をしてて、妙な違和感を感じる時がある。それは「会議の目的は何なのか共有してないから」とか「アジェンダを用意せず、議事録をつけてないから」とかそういうことではなくて。
なんとなく「会議」というものは、「誰が何をいつまでにどうするのか」を決めるフリをした「タスクの気づかせあい」なんじゃないのかと思った。ある種、なすりつけあいなので、しっかりと「誰が何を」というのを決める前提にない。でもタスクなりクライアントの要望はあるので、誰かがやらないといけない。その決まるときの理由が、「自分がやりたいから」とか「そこは私の仕事なのでやります」という前向きなものではなく、会議に出てる人達の力関係だったり色々な事情が裏で働いて、やる人が決まる事が多い。そのせいなのか、往々にしてやる事になった人に、妥協というか嫌々感を感じてしまう。あれなんでなんだろう。

やるべき事はわかってるんだし、個々の立ち位置もはっきりしてるのなら、自ずと誰がやるべきなのかはわかるはず。だから「これはあなたの仕事なんだからやってください」と正直に言えば即終わるんだけど、会議の時に渦巻いてると感じる「遠慮」とか「めんどくさい」とか「誰か決めるだろう」とか「あいつにやらせよう」という立会う人間の弱気な感情。それが会議を長引かせてるし、話がこじれてる理由な気がする。

理由や状況を遠まわしに述べて、そのために資料を作り、やるべき位置にいる人にそれをやらせるように話を持っていく頭脳ゲームが「会議」だとしたら、正直しんどいのだけど、「みんなで考えてみんなで決めよう」という全体主義からの責任回避のスタンスが文化としてある限り、きっとそういうのって無くならないんだろうなー。と思った。

 

関心の対象と範囲

自分の生活なり仕事なりには、「自分が関わっている事」に対して、見えない範疇というものがあると思う。その時に悩むのが、物事に対して関心を持つときに、自分がどこまで首をつっこめばよいのかというとこ。

Webサイトの制作の場合、自分が携わってるサイトのディレクションについては、お客との交渉とか、素材の手配とか、仕様の取り決めとかが、ここでいう「関心の対象」になる。それは自分のタスクなので普通にやるんだけど、自分から見て、それを取り巻く付加的な要素(デザインとかプログラミングとか)の判断に困ってしまうときがある。
ある種、分担作業が当たり前のサイト制作において、タスクの割り振り=決定権の分散なので、制作前に仕様を共有して適材適所のエキスパートが、それぞれ自分の「関心の対象」に対して良いと思う形で判断をするのが、普通なのではと思っていた。あとは「こうしましたー」って言ってもらえれば、問題なければ「じゃ、それで」で済むし、自分がわからない事について判断を求められた時に「そっちで決めて」になる。ただ自分の場合、「全部自分が決めないと」と思う反面「無理だから任せちゃお」という葛藤が先に出るので、アサインしたデザイナーとプログラマーが提案タイプか指示待ちタイプかで変わってくる。

生活においても「自分と自分が関心のある人と自分が関心のある人と関係がある人」についてという場合、自分にとっての関心の対象は、「自分が関心のある人」なので、「自分が関心のある人と自分が関心のある人と関係がある人」の間に何があったか(あるのか)が関心の対象から外れてしまう時があった。特に「自分が関心のある人と自分が関心のある人と関係がある人」の間にある事が、自分にとってネガティブな事の場合。直接的に自分に関わってこない分、現実味が湧きにくい。自分の事として受け止められないので「それはそれ。これはこれ」みたいな形で物分りよく割りきるか、どうしてよいかわからないという感覚になる時があった。

慈愛的に少しでも自分と関係がある事柄全てに関心を持つべきなのか、それぞれに責任や範疇があるんだから目の前の自分の関心の対象にだけ気を配るべきなのか。正直、その辺は実感としてまだよくわからない。でも、自分の関心の対象が何なのかを決めるのは自分である以上、状況とか事情とか立場とかはあるにせよ、前者でありたいなと思う。それは自分の関心の対象を広げる事だし、翻って自分の器というか、枠を広げる事にも繋がるような気がする。

 

自分を愛でる

30年も男をやっていると親や周りから褒められるという事がなくなってくる。
むしろ激励という名の批判だったり、足りてないところの指摘などのほうが多くなる。それだけ期待されてるってことなんだろうし、言われてるうちが花なんだけど、自分の場合はそこから自己批判に走ってしまうので、あまり精神的によくない。

褒められてるうちは、まだまだというけれど、幼少時とかにあまり親から褒められた経験が少ない人間としては、自分の立ち位置というか居場所が「言われた事に素直に従う事」とかにあったりするので、本来、自分ができる事とかでも無意識に手を抜いたり、周りからの指摘を待ったり、携わってる物事への関心が足りなくなったりしてた。仕事でもレギュレーションが曖昧だとイライラしたり、型にハメて動こうとするので、なぁなぁで動く事に戸惑いを感じてしまう。PM的には、そこを明確にするのが大事なんだけど、それに依存してしまうので、融通がきかず、違う意識の人から指摘を受けた時、自己批判におちて、ネガティブなスパイラルに入り、結局、開き直るという繰り返しだったような。

年末は、アスペルガーの本とかアダルトチルドレンの本とか人間失格を読んだりしたんだけど、今年はちょっとずつ、怒られたりしても「イヤなものはイヤ」と言えるようになりたいなーと思ってる。そのせいか、周りから指摘されても、前ほど気にならなくはなってきたかも。そこで自分の軸ができれば、人が決めたレギュレーションや手法に依存する事なく、自分で判断できるようになれそう。むしろ自分に足りないのは、そういう場面でこそ自己批判に走らず「こんなに頑張ったじゃないか」と自分を褒め(愛す)る事なんだと思う。

とかく自分にとって、この世は生きにくい。でも、そこに気がつけただけでも素晴らしい。
今年は些細な事でも、ちゃんと自分を褒めていきたいと思う。

書いててなんか泣けてきたけど、嬉し涙の感覚に近い。変なの。

 

暮れの元気なご挨拶

いつの頃からか年賀状を書かなくなって、それが当たり前になっている。
かといって、「あけおめ」メールをする事もなく、なんとなく、そういったキマリの挨拶みたいなことをするのに照れみたいなのを感じてしまうのだが、小学校の頃に担任の先生に年賀状を書いて、それ以来書いていないかもしれない。あんまり覚えてない。高校とかは多分皆無。まぁ、普段から顔合わせてる仲だし、何をいまさらおめでとうなのかとツンツンしてた時期だったかも。

ブログとかTwitterとか自分発信のメディア思考だと、あまり自分から誰かに年賀状を書いたりって事が億劫になりそう。自分のブログで「新年のご挨拶」なんてタイトルで、つらつら抱負を書いて友達がコメントで返事とか。それがいいのか。楽だから。

それでいいのかはわからないけれど、書かない自分が言うのもなんだが、なんとなくそれに世の中がつられてしまっている様なフシを感じる。郵政方面の人は置いといて。デジタルはともかく、郵便に思いを託すというのとはまた違った、新年の自分の気持ちの表現方法って他にないかなーとか考えたけど、やっぱり会って挨拶するのが一番良い気がする。それが一番伝わりそう。暗い話が多いので、愚痴など言いつつも楽しく時間を共有するのが一番の挨拶なんだろうなぁ。年始とか一応区切りの時に自分の大事な人に会って、親睦を深めるというのは、案外バカにできないのかもしれないなーとか思った。

振り返ってみると、今年は、元旦から年末まで本当に「自分について」を考える事が多かった1年だった。
周りから言われてた事は、意図する部分はずっと同じで、なんとかその都度、こうしようあーしようと考えてたんだけど、結局、補えないまま一年終わってたんだなーと思った。後半はすっかりバテたし。ただ足りてない事を個性と受け入れ、そこからどうするのかを来年は考えてやってかないとと思ってる。なんとなくやっと自分の軸が見えてきた感じ。スタートはネガティブっぽいけど、考え方次第かも。

世の中は色々あるからー どうか元気でー お気をつけてー。